人間の幸福は、「自由」の中にあるか、それとも「義務」の中にあるか
最近、オムライスを上手に作れるようになりました。
ギリギリ女子大生 みどりちゃんです。
みなさん、いかがお過ごしでしょうか。
さて、本題。
みどりちゃん、『夜間飛行』を読む
昨日からサンテグジュペリの『夜間飛行』を読み始めた。
サンテグジュペリと言えば『星の王子さま』が有名すぎるほど有名だけど、この『夜間飛行』も極めて知名度は高い。
それでも、『星の王子さま』にはかなわないだろうけど。
かくいうわたしも、いままで、それこそ『星の王子さま』は読んでたけど『夜間飛行』は…という感じだった。
ただ、一応文学を学問として勉強していた者として、サンテグジュペリの『夜間飛行』をこのままスルーするのはそれなりの勇気が必要だった。
この作品は少しばかり有名すぎたのだ。
そうして、わたしは『夜間飛行』を読み始めた。
読み始めた、けど、早速躓いた。
案の定だった。
みどりちゃんはおつむが弱い、これは謙遜でも卑下でもなく、紛うことなき事実だ。
だから「なんでだろう?」を見つけるとそこから進めなくなる。
森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』もそれで断念した。(だってアルファベットがすごい)
以前サンテグジュペリの『星の王子さま』を読んだことがあると言ったが、その時もそうだった。
サンテグジュペリは、作品を通して読者に考えさせることがままある。(といっても『星の王子さま』しか読んだことがないから他の作品のことは分からない)
そうすると、わたしみたいなのは、すごく躓く。
作者の意図にまんまと嵌り、延々と考えてしまうからである。
だから、此度の『夜間飛行』も何れは躓くんだろうな、とは思っていた。
けど、それが開いて数ページのこととは思いもよらなかったよ。
しかも、わたしが躓いた「序」を書いたのはサンテグジュペリですらない。アンドレ・ジッドっつーフランスの小説家だった。
友達なのかな?(馬鹿)
人間の幸福の在処
で、じゃあ、あんた、一体どこに躓いたのよ。
って話なんだけど、それはここです。
サンテグジュペリ作『夜間飛行』収録、アンドレ・ジッドによる「序」に書かれたこの一文。
僕は特に作者に対し、自分にとって極めて重大な心理学的重要性を持つ逆説的な真理、――すなわち人間の幸福は、自由の中に存在するのではなく、義務の甘受の中に存在するのだという事実を、明らかにしてくれた点に感謝する者だ。
(サンテグジュペリ作 堀口大學訳『夜間飛行』 昭31・2 新潮社 収録 アンドレ・ジッドによる「序」より引用)
ひどく、衝撃を受けた。
アンドレ・ジッドは「自分にとって」と前置きしながら、「人間の幸福」とは「自由」ではなく「義務」の「甘受」の中にあるといい、それが『夜間飛行』という作品の中で書かれているという。
凡人たるみどりちゃんは、凡人ゆえに、まだ20余年しか生きていないが、その20余年の中で1度も「幸福の在処」について考えたことなんてなかった。
だから、びっくりしたのだ。
びっくりして、そこから読めなくなってしまった。
だから1回、立ち止まって考えることにした。
そもそも「幸福」というのは一体何なんだろう。
「しあわせ」という感情を世間一般に定義するのは生半可じゃなく難しい。少なくても、わたしには。
なので、自分規模に狭めて考える。
わたしは、おいしいものをたべてるとき、好きな人たちと一緒にいるとき、自分の好きなことをしてるとき、とてつもない大きな「幸福」を感じる。
これらの「幸福」は一体何処にあるのだろうか。
ここまで考えて、この問の答えが少しだけ見えて気がした。
幸福は分類される…?
アンドレ・ジッドがどのような意味で「自由」という言葉を用いたのかは分からないが、きっとこの場合の「自由」は額面通りの意味で捉えていいだろう。
というのも、世の中には「自由」に対して様々な意見や定義があるが、この文脈からして、ここでの「自由」は純粋な意味での「自由」であると判断できるからである。
「自由」とは、小学館『新明解国語辞典 第七版』によると、「他から制限や束縛を受けず、自分の意志・感情に従って行動する(出来る)こと。また、その様子」と定義されている。
つまり、ねむたい、と感じたとき、誰にも邪魔されずに布団で寝る。イコール、これ自由ということだ。
しかし、わたしは、ねむたい、と感じたとき、誰にも邪魔されずに布団で寝る幸福感を知っている。
すなわち、この行為は自由でありながら幸福を得ることができるのだ。
と、ここで、フロイトの自我の話を思い出す。
人間は無意識の中に「エス(イド)」と呼ばれるリビドーと攻撃衝動が溜まっているところがあり、それを「超自我」という無意識的な良心が抑えているという。これらに、その葛藤を調停する「自我(エゴ)」が加わった三つでフロイトは心のはたらきを説明した。
なぜ人間の精神のうちに超自我が存在するか。それは、「自由に行動することによって生じるリスク」があるからだとわたしは考える。
誰かが自由に行動することによって、誰かに危険や損害が生じ、誰かの自由が脅かされる。
そういった負の連鎖を、生物的本能で、歴史的経験で、無意識的に理解しているから、超自我が存在するのではないか。
そして、そのそれぞれにあった超自我が、わかりやすく、そして目に見える形で、一般的な標になったのが、義務であり、規範であるのだ。
つまり、自由の中に幸福は無い、とは言い切れないが、義務の甘受の中に幸福が存在するのも間違いではない、という、何とも中途半端な結論が導かれるのだった。
というのも、幸福は生物的な幸福と社会的な幸福に分類され、それらは根本的には、一緒くたにできないからだ、などと考える。
知恵熱やばい
わたしは、こうやって結論を出すことが昔から大の苦手だ。
だから「白か黒かハッキリしたいタイプ」の人にはいらいらされることの方が多いし、優柔不断だと言われることもある。
なので最近はどんなに難しいことでも「こうだ」と決めることにした。
それがたとえ中途半端な答えになったとしても、考えた末の結論であれば、誰も文句は言えまい、と思ったのだ。
だからこれからも、たくさん考える。
「人間は考える葦である」から。
たとえ稚拙でも、知恵熱出しても、みどりちゃんは考える……
かしこ
はじめまして、女子大生(ギリギリ) みどりちゃんです
挨拶は基本ですからね。
はじめまして、わたくし、みどりちゃんとのたまう者です。
ラスト女子大生、社会と自己の狭間で揺れ動く、少し毛が生えた程度の成人女性です。
適当にお見知り置きください。
人生の夏休み(笑)に喩えられる大学生活も、もう残り一年を切ってしまった。
授業も週2回程度しかなく、気がついたら誰とも会わずに1日が過ぎていく。
言葉を交わす相手は自分のみ…
自問自答自問自答自問自答、まさに悟りをひらかんとする修行僧のように、真剣に己と向き合う日々。
「今日、何食べたい気分?」
「肉がいいなあ、もつ鍋にしよう」
「やだよ、暑いもん」
「じゃあ冷しゃぶなんかどう?」
といった具合にね。なんちゃって。
そんな風にひとりで考えごとをしていると、色んなことに気付いたり、思い付いたりする。
さらに、なんたって、みどりちゃんはおつむがとっても弱いから、沢山の「なんでだろう?」もわんさか出てくる。
でもひとりじゃ消化しきれないから、ブログを書いてみることにした。
すごい極端!ひとりじゃ嫌だから不特定多数に晒す。すごい極端!
しかも、みどりちゃんことわたし、なんとブログを書くのは中学生以来である。だからか、こんなに拙いの。不慣れなのモロバレだよ。
ネットリテラシーうんたらと言われているこの御時世に「天下のはてなブログ様でブログを書く」というのは、わたしにとって非常に恐ろしいことだ。
だけど、同時にとてつもない高揚を感じている。
たとえ誰にも見つけてもらえなくても、「ブログを書く」というその行為自体が、「自分を外に発信する」こととイコールで繋がると思うから。
三日坊主になってもいいので、とりあえず書いてみようと思ったのだ。
間違えたりしたらごめんなさいね。
そのときは優しく教えてください。
というわけで、女子大生のなんでもない備忘録、どうぞよしなに。
かしこ